幾五郎ブログ 1:大通詞 小田幾五郎略伝
- kagiyaco
- 2021年11月3日
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名古屋大学 酒井雅代
鍵屋歴史館所蔵史料の中核を担うのは、通詞である小田幾五郎が記した史料です。
幾五郎ブログ第1回である今回は、その小田幾五郎という人物がどのような人であったかをご紹介しようと思います。
小田幾五郎は、宝暦4年(1754)、対馬藩の「六十人」の家に生まれました。対馬藩の人物として有名な雨森芳洲は宝暦5年(1755)に亡くなりますので、ちょうどその後の時代を生きたことになります。
「六十人」は、藩から朝鮮貿易の特権を認められた町人の家柄です。朝鮮の人との貿易をするには語学力が必要になりますから、小田家の長男として、幾五郎も幼い時から朝鮮語の学習に励みました。安永3年(1774)には、対馬藩の公認語学生(詞稽古御免札)として認められました。
詞稽古御免札として認められると、その後は、さらに語学力を身につけ、商人として家業を継ぐ場合もあれば、藩の役人として働く場合もありました。しかし幾五郎は、通詞の道を歩むことにしました。安永5年(1776)に五人通詞に取り立てられ、専門の通詞身分の仲間入りを果たし、安永8年(1779)には稽古通詞に昇進しました。
天明元年(1781)には和館(釜山倭館)での駐在、天明7年(1787)からは長崎にある対馬藩蔵屋敷での駐在をつとめました。長崎勤務は通常1年で交代のところ、「御算用(経理?)」などにも携わり、結局6年滞在しました。この間、寛政元年(1789)には本通詞に昇進しています。
寛政4年(1792)、長崎から帰国した冬にすぐ、幾五郎は朝鮮勤務を命じられました。これがこの後10年以上続く長い釜山滞在の始まりでした。駐在の職務を終えた後も、通信使の来聘交渉(1811年に対馬で実現)の特命を受けて、そのまま交渉担当通詞として和館(倭館)に勤務し続けました。その功績が認められ、寛政7年(1795)には最高位の大通詞にまで昇進しました。
この前後、寛政6年(1794)に、幾五郎は初めての著書となる『象胥紀聞』をまとめています。その序文を見ると、幾五郎が、剛直だが柔らかい人柄で、日朝間の仕事をうまくこなしていること、時間ができるたびに訳官(朝鮮人の日本語通訳官)たちに会って朝鮮の形勢を聞いてまとめていることなどが記されます。
また、幾五郎の上長にあたる和館の館守、戸田頼母が記した史料には、幾五郎が実直で、いろいろなことに心を尽くして勤めており、いずれの東萊府使(釜山倭館を統轄する地方官庁の長)からも褒められるほどの語学力があると評価しています。また、その人柄ゆえに、訳官などが、他の通詞に話さないような話も幾五郎にだけは話すほどであったと書かれています。
小田幾五郎という人が、真面目で柔和な人物で、朝鮮語の能力もあり、好奇心も旺盛で、朝鮮人の訳官とも深い関係を築いてきたことがよくわかります。
そのような交流を通して外交交渉を順調に進め、享和3年(1803)には帯刀を、文化3年(1806)には、幾五郎自身は町人身分にもかかわらず、子供一人を大小姓(武士)の養子にすることを藩から許されています。子供を武士にしてもいいと認められるほど、功績を高く評価されたということです。
その後、藩の作戦で謹慎させられたこともありましたが、文化8年(1811)に通信使が対馬を訪れた際には通詞として活躍し、文化14年(1817)にも和館(倭館)駐在をつとめています。
幾五郎は、このように大通詞として長年第一線で活躍するかたわら、後進の人びとの教育にも力を注ぎました。詞稽古指南役として朝鮮語指導をおこない、大通詞を退いた後も指導を続けました。朝鮮語の学習書を新しく作ってもいます。
天保2年(1831)、幾五郎は、これまでの通詞人生の集大成となる著作『通訳酬■(酉へんに作)』を藩に献上し、その年に亡くなりました。
50年以上の長きにわたり、日本の最前線で小田幾五郎は何を見てきたのでしょうか。鍵屋歴史館には幾五郎の記した史料がたくさんあります。次回からは、その著作の内容を少しずつご紹介したいと思います。
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